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送り梅雨の高温湿気に霞む俣野公園 7/7 S.Itakura
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フリガナ
ツバキ
名称
椿
別名
場所
県ハイツ
見頃
2月
種類
常緑高木
資料
http://ja.wikipedia.org/wiki/ツバキ
特徴
ツバキ(椿)は、ツバキ科ツバキ属の植物の総称である。狭義には、ヤブツバキ(藪椿、あるいは単にツバキとも。学名:Camellia japonica)を指す。照葉樹林の代表的な樹木。花期は冬から春にかけて。春の季語。海柘榴とも表記する。
花が美しく利用価値も高いので万葉集の頃からよく知られたが、特に近世に茶花として好まれ多くの園芸品種が作られた。美術や音楽の作品にもしばしば取り上げられている。
18世紀にイエズス会の助修士で植物学に造詣の深かったゲオルク・ジョセフ・カメルはフィリピンでこの花の種を入手してヨーロッパに紹介した。その後有名なカール・フォン・リンネがこのカメルにちなんで、椿にカメルという名前をつけた。19世紀には園芸植物として流行し、『椿姫』(アレクサンドル・デュマ・フィスの小説、またそれを原作とするジュゼッペ・ヴェルディのオペラ)にも主人公の好きな花として登場する。和名の「つばき」は、厚葉樹(あつばき)、または艶葉樹(つやばき)が訛った物とされている。
「椿」の字の音読みは「チン」で、椿山荘(ちんざんそう)などの固有名詞に使われたりする。なお「椿」はツバキとは無関係のセンダン科の植物チャンチン(香椿)の意味で使われることもある。
ツバキの花は花弁が個々に散るのではなく、多くは花弁が基部でつながっていて萼を残して丸ごと落ちる。それが首が落ちる様子を連想させるために入院している人間などのお見舞いに持っていくことはタブーとされている。この様は古来より落椿とも表現され、俳句においては春の季語である。なお「五色八重散椿」のように、ヤブツバキ系でありながら花弁がばらばらに散る園芸品種もある。
また、馬の世界においても落馬を連想させるとして、競馬の競走馬や馬術競技馬の名前としては避けられる。特に競馬では、過去にはタマツバキの様な名馬もいるが、1969年の第36回東京優駿(日本ダービー)で大本命視されたタカツバキが、スタート直後に落馬で競走中止するというアクシデントを起こして以降、ほとんど付けられることがなくなったとされている。
武士はその首が落ちる様子に似ているというのを理由にツバキを嫌った、という話もあるがそれは幕末から明治時代以降の流言であり、むしろ潔しとした。実際には江戸時代には大々的に品種改良が進められていたというのが真相である。1600年代初頭には多数の園芸品種が流行。1681年には,世界で初めて椿園芸品種を解説した書物が当時の江戸で出版される。
歴史的な背景として、日本では733年「出雲風土記」にすでに椿が用いられている。その他、多くの日本の古文献に出てくる。中国では隋の王朝の第2 代皇帝、煬帝(ようだい)の詩の中で椿が「海榴」もしくは「海石榴」として出てくる。海という言葉からもわかるように海を越えてきたもの、日本からきたものを意味していると考えられる。榴の字は、ザクロを由来としている。しかしながら、海石榴と呼ばれた植物が本当に椿であったのかは国際的には認められていない。中国において、ツバキは主に「山茶」と書き表されている。「椿」の字は日本が独自にあてたものであり、中国においては椿といえば、「芳椿」という東北地方の春の野菜が該当する。
ツバキは生長すると樹高20mほどになるが、日本のツバキの大木はほとんど伐採され、最後の供給地として屋久島からも切り出されたが、現在では入手の難しい材である。
大木は入手しにくいので建築用にはあまり使われない。木質は固く緻密、かつ均質で木目は余り目立たない、摩耗に強くて摩り減らない等の特徴から工芸品、細工もの等に使われる。
代表的な用途は印材。近年は合成材料の判子が多くなったが、以前の木の判子は、殆どツバキが使われていた。
日本酒の醸造には木灰が必要で、ツバキの木灰が最高とされている。また、アルミニウムを多く含むことから古くは染色用にも用いられた。しかしツバキが少ないため灰の入手は難しい。
ツバキの木炭は品質が高く、昔は大名の手焙りに使われた。
椿油は、種子(実)を絞った油で、用途の広さは和製オリーブオイルとも言える。高級食用油、整髪料として使われるほか、古くは灯りなどの燃料油としてもよく使われた。ヤブツバキの種子から取る油は高価なため、同じくツバキ属の油茶などから搾った油もカメリア油の名で輸入されている。
搾油で出る油粕は川上から流して、川魚、田螺、川えび等を殺すのに使われた。
ツバキの花は古来から日本人に愛され、京都の龍安寺には室町時代のツバキが残っている。他家受粉で結実するために変種が生じやすいことから、古くから品種改良が行われてきた。江戸時代には江戸の将軍や肥後、加賀などの大名、京都の公家などが園芸を好んだことから、庶民の間でも大いに流行し、たくさんの品種が作られた。
茶道でも大変珍重されており、冬場の炉の季節は茶席が椿一色となることから「茶花の女王」の異名を持つ。
また西洋に伝来すると、冬にでも常緑で日陰でも花を咲かせる性質が好まれ、大変な人気となり、西洋の美意識に基づいた豪華な花をつける品種が作られた。
葉のエキスが止血薬になる。
ヤブツバキ
原種。分布は南西諸島から青森県夏泊半島まで分布している。これはツバキ属の自生地の北限である。西日本にはほぼ全域に分布しているが、東日本では温暖な地域に自生している。
ユキツバキ(雪椿)
ユキツバキの学名はCamellia japonica subsp. rusticana。上記のツバキ(ヤブツバキ)の豪雪地帯適応型変種で、ヤブツバキに比べ、枝がしなやか、花弁が水平に開く、等の特徴がある。花の変異が多く八重咲きの品種改良に大きく貢献した。別名サルイワツバキ。ヤブツバキとの交雑系統を「ユキバタツバキ」と呼ぶ。
侘助(わびすけ)
中国産種に由来すると推測される「太郎冠者(たろうかじゃ)」という品種から派生したもの。一般のツバキに比べて花は小型で、猪口咲きになるものが多い。葯が退化変形して花粉を生ぜず、また結実しにくい。なおヤブツバキの系統にも葯が退化変形して花粉を付けないものがあるが、これらは侘芯(わびしん)ツバキとしてワビスケとは区別される。 色は赤と白が主である。 油は採れない。毛虫がたかりやすい。
匂いツバキ
匂いのイメージのあまりないツバキ・サザンカの中で南西諸島原産のヒメサザンカ(Camellia lutchuensis)には香りが有るが、小輪であるため、他の種類と交配して新品種作りが進められている。現在入手可能な品種は、横浜の村田氏が作出した、港シリーズ(港の曙、港の春、港の桜)八王子の桐野秋豊氏が作出した高尾の香りなどがある。ツバキは赤が主体で、色が派手なので、鳥や虫を呼び寄せるために香りがある必要がないので、香りがないのだという説がある。
トウツバキ(唐椿)
中国雲南省原産のツバキ(Camellia reticulata)。大輪で華やかな姿が魅力である。
グランサムツバキ
香港原産の白花ツバキ。
浙江紅花油茶
日本のツバキに最も近い。
サルウィンツバキ
香港茶
香港特産の野生種で、冬にツバキより小型の赤い花が咲く(Camellia hongkongensis)。
ユーシーネンシス
中国湖南省の白花ツバキ。
金花茶
中国広西壮族自治区に分布する黄花のツバキ。中国広西壮族自治区からベトナムベトナムにいたる地域には金花茶以外の黄花のツバキも自生し、約50種が報告されている。
海棠(かいどう)
Camellia amplexicaulis 「ハイドゥン」の名で知られる。花は紅~濃桃色。日本では導入以降長らく高級な園芸植物であったが、2007年にはつぼみ付きで一鉢698円で出回るケースも見られた。
ルブリフロラ
カウダータ
ランケオラータ
アザレアツバキ
西洋ツバキ
19世紀に西洋に渡った日本のツバキが、西洋の美意識に基づいて品種改良されたもの。日本のツバキが「わび・さび」といった独自の感性の中で品種が生み出されたのに対して、優雅で華麗、豪華な花容のものが多い。
江戸のツバキ
徳川幕府が開かれると、江戸に多くの神社、寺院、武家屋敷が建設された。それにともない、多くの庭園が営まれ、ツバキも植栽されていった。ことに徳川秀忠が吹上御殿に花畑を作り多くのツバキを含む名花を献上させた。これが江戸ツバキの発祥といわれる。『武家深秘録』の慶長18年には「将軍秀忠花癖あり名花を諸国に徴し、これを後吹上花壇に栽(う)えて愛玩す。此頃より山茶(ツバキ)流行し数多の珍種をだす」とある。
権力者の庇護をうけて、ツバキは武士、町人に愛されるようになった。
江戸ツバキは花形、花色が豊富で、洗練された美しさをもつ、一重では清楚な「蝶千鳥」「関東月見草」「蜀紅」、唐子咲きでは「卜伴」。八重では蓮華咲きの「羽衣」「春の台」「岩根絞」など。
上方のツバキ
古来、都がおかれたツバキも古くから愛玩されてきた。ことに江戸期には徳川秀忠の娘東福門院和子を中宮として迎えた後水尾天皇や誓願寺の安楽庵策伝などの文化人がツバキを蒐集した。寛永7年(1630年)には安楽庵策伝によって「百椿集」を著した。さらに寛永11には烏丸光広によって「椿花図譜」が著され、そこには619種のツバキが紹介されている。現在でも京都周辺の寺社仏閣には銘椿が多い。
上方のツバキは変異の多いユキツバキが北陸から導入されたことと、京都、大坂の人々の独自の審美眼によって選抜されたことに特色がある。
尾張のツバキ
江戸時代より名古屋を中心に育成されてきた品種群。その特徴は一重、筒咲き(または抱え咲き、椀咲き)、小中輪の茶花向きの品種群である。 「関戸太郎」「窓の雪」「紅妙蓮寺」「大城冠」などがあるほか、名古屋好みの豊満な花容のものもある。
近隣の三河、伊勢、美濃のものとあわせて「中部ツバキ」とも呼ばれている。
加賀のツバキ
北陸各地に誕生したユキツバキ系の品種の京都の中継地として、この地は園芸の隆盛の大きな役割を果たした。茶の湯のさかんな土地柄ゆえに茶花向けの品種が多く、旧家の庭に多くの銘木がある。
代表的な品種には「東方朔」「ことじ」「祐閑寺名月」などがある。
富山、越後のツバキ
ユキツバキの自生地であることから、変化に富んだ選抜品種や、ヤブツバキとの交配によるユキツバキ系の品種が古くから栽培されてきた。氷見市老谷の「さしまたの椿」のような巨木も多い。
代表的な品種に「大日の暁」「雪白唐子」「栃姫」「千羽鶴」など。
山陰のツバキ
「つばきのふるさと」と言われるほどの自生地の多い地域である。古くから品種改良が盛んで、ことに江戸期松江藩がおかれてから盛んになり松平不昧は各地からツバキを集めた。萩から松江にかけて清楚な一重咲きが作られ愛好されている。
代表的な品種は「花仙山」「意宇(おう)の里」「角(すみ)の光」など。
久留米のツバキ
肥後のツバキ
肥後椿(ひごつばき)は、肥後・熊本藩の大名だった細川家にて、育種・保存されていた系統で、かつては門外不出であったが、現在では苗木が販売され、愛好者が多い。鉢植え・盆栽として栽培され、花は大輪一重で、梅蕊(ばいしん)咲きという花形で、花の中心から多数のおしべが放射状に広がり、赤・白・ピンクやその絞り咲きの花の色と、黄色のおしべとのコントラストが非常に美しい。肥後六花の一つ。
サザンカとの見分け方
ツバキ(狭義のツバキ。ヤブツバキ)とサザンカはよく似ているが、次のことに着目すると見分けることができる(原種は見分けやすいが、園芸品種は多様性に富むので見分けにくい場合がある)。
* ツバキは花弁が個々に散るのではなく萼と雌しべだけを木に残して丸ごと落ちるが(花弁がばらばらに散る園芸品種もある)、サザンカは花びらが個々に散る。このためツバキは、見舞いの時には贈ってはならないといわれる。(死を連想させるため)
* ツバキは雄しべの花糸が下半分くらいくっついているが、サザンカは花糸がくっつかない。
* ツバキは、花は完全には平開しない(カップ状のことも多い)。サザンカは、ほとんど完全に平開する。
* ツバキの子房には毛がないが(ワビスケには子房に毛があるものもある)、サザンカ(カンツバキ・ハルサザンカを含む)の子房には毛がある
* ツバキは葉柄に毛が生えない(ユキツバキの葉柄には毛がある)。サザンカは葉柄に毛が生える。
文化
ツバキは日本書紀において、その記録が残されている。景行天皇が九州で起こった熊襲の乱を鎮めたおり、土蜘蛛に対して「海石榴(ツバキ)の椎」を用いた。これはツバキの材質の強さにちなんだ逸話とされており、正倉院に納められている災いを払う卯杖もその材質に海石榴が用いられているとされている。733年の「出雲風土記」には海榴、海石榴、椿という文字が見受けられる。しかし、これらが現在のツバキと同一のものであるかについては議論の余地がある。
万葉集において、ツバキが使用された歌は9首あるが、サクラ、ウメといった材料的な題材と比較すると数は多くない。源氏物語においても、「つばいもち」として名が残されている程度であり、室町時代までさほど芸術の題材として注目された存在ではなかった。しかし、風雅を好む足利義政の代になると、明から椿堆朱盆、椿尾長鳥堆朱盆といった工芸品を数多く取りよせ、彫漆、螺鈿の題材としてツバキが散見されるようになった。また、豊臣秀吉は茶の湯にツバキを好んで用い、茶道においてツバキは重要な地位を占めるようになる。江戸時代に入ると、二代目将軍徳川秀忠がツバキを好み、そのため芸術の題材としてのツバキが広く知られるようになった。この時期、烏丸光広、林羅山が相次いで『百椿図』を描き、絵画、彫刻、工芸品へツバキが定着する。また、ツバキの栽培も一般化し、園芸品種は約200種にも及んだ。
* 年を経たツバキは化けるという言い伝えが日本各地に残る。新潟の伝説では、荒れ寺に現れる化け物の正体が椿の木槌であったり、島根の伝説では、牛鬼の正体が椿の古根だったという話がある。
Wikipediaから転載 http://ja.wikipedia.org/wiki/ツバキ
記入者:
setsuo
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